煮ても硬くならないのがヤリイカのいいところ。甘辛味なのにイカ独特の風味、味わいが生きている。調味料由来ではない甘みがある

この冬はまことに寒い。冷える上に、二八などといい、一年でもっとも活気のない月。市場も人影まばらで余計に寒さが身にしみる。仕込みをしているたかさんの手が真っ赤に染まり、いたいたしい。
「忠さんところの梅が咲いたらしいよ。白いヤツ」
「そう、よかったね」
「赤いのはまだなのかなー?」
「知らねーよ」
たかさん、大量の小ヤリイカの仕込みでいらいらしている。そのいらいらを増幅させるようなことを言っていたら、八王子最長老のすし職人、忠さんがやってきた。
「こんなカタでいいですか?」
「ああ、ちょうどいいな。今年はぜんぱんにちいせいようだな。普通、暮れのあたりに作るんだけんど」
たかさんが作業をしながら、
「半分むいて、半分は皮つきでやろうかな、と思っていますんで」
「へえー、皮つきでいいと思うけどな。オレらは皮むかないな」
今回、戦前からの伝統的なすしネタ、ヤリイカの煮イカの作り方を、長老に教わっているのだ。
たかさんが鍋を取りだして酒を二合、水を八合入れて一煮立ちさせ、砂糖をカップ一杯放り込む。
「もっと甘くてもいいぞ」
砂糖をあとカップ半分加えて、醤油を二カップ入れた。
「忠さん、今年釣りは?」
「最近おっくうでな、近場ヤリばっかだな」
鍋の調味料が少し煮詰まったら、ヤリイカのげそを入れ、二、三分煮て、ひとつ味見、また二、三分待って、げそを取り出す。げそとワタを取った胴はひとつずつ放り込み、胴の間に箸を入れてくるくる回して、ほんの三十秒くらいで取り出す。
胴長が一五センチほどの小振りのヤリなので、めんどうな仕込みではあるが、忠さんいわく、この手間が大切なのだという。
煮上がったそばからザルに上げて、こんどは煮汁に、朝方穴子を煮た汁を加えて煮詰めていく。
このさっと煮たイカがうまい。やや甘めの江戸前風の味が、酒にあいそうだ。食べ出すと切りがない。
「たかさん、げそ土産にくれ!」
「だめ。げそはオレが食う」
「城ヶ島沖のヤリもいいようですね。最近よくもらいます」
「そうだな、カタがばらばらだけんど、いい釣りできるよ」
一時間ほど煮詰めて、『市場寿司』特製のツメが出来上がる。
小ヤリの胴にすし飯を詰め込む。すしの世界でこれを印籠と呼ぶ。そして最後にツメを塗る。
煮ても硬くならないところがヤリイカのいいところ。甘辛味なのにイカ独特の風味、味わいが生きているし、調味料由来ではない甘みがある。一尾を半分に割って、上品すぎる大きさだが、味の方はデッカイ。
「これこれ、これだな。よくできてる。これが戦前からの煮イカの味よ。並ずしにはスルメだけんど、ヤリは上、特上につけるもんだったな」
忠さんも、これこそ昔の味だと言ってくれて、長い仕込みで不機嫌だったたかさんの顔がゆるむ。
そして数日後、そば店の浅やんがまたまたヤリイカを届けに来た。
「これ城ヶ島沖よ。次は石花海に出動するつもりだかんな。今回は予行演習ね。でもヤリの味は大きさじゃないね…(自慢話大幅カット)」
これも『市場寿司』に持ち込んで、最初はげそ、次に胴、最後に耳。
部分部分で味が違う。でもやっぱりヤリイカは耳がいい。
「うまいね。さすが名人浅やんだ。あれで自慢話がなければねー」
翌日、浅やんに呼び止められ、「昨日、オレの悪口言ったろ?」
浅やんの耳は地獄耳だった。
ヤリイカ(ツツイカ目ヤリイカ科ヤリイカ属)

北海道南部から九州。黄海、東シナ海沿岸・近海域のやや深場に生息している。
ヤリイカというのは関東での呼び名で、山陰では「本イカ」。非常に紛らわしいが「ケンサキイカ」と呼ぶところもある。また「笹イカ」という地域も多い。
イカには貝殻の名残である甲に厚みがあって舟状であるコウイカ類と、薄く透明なフィルム状になったツツイカ類に分かれるが、本種が後者なのは常識だろう。ではイカの外套膜(一般に胴といわれる部分)の先にあるぺらぺらした部分、コウイカ類だと胴の周辺にぐるりとついている、薄くひれ状の部分の呼び名をご存じだろうか? コウイカ類は「えんぺら」、ツツイカ類は「耳」というのだ。ツツイカの中でもヤリイカは格別「耳」がうまいなどという。ツツイカにはスルメイカ、ケンサキイカなどがあるがヤリイカの「耳」はすし屋では貴重品で「常連さんにそっと出す」ものだという。
ヤリイカは市場では小さい頃から別格。スルメイカなどと比べると格段に高い。小さいもので1キロあたり卸値2000円前後、大きいものだと3000円以上する。小振りの300グラムほどのものでも600円くらいはする。ましてや釣りたての鮮度抜群ならもっともっと高くなるのは必然である。
◆協力『市場寿司 たか』
八王子市北野八王子綜合卸売センター内の寿司店。店主の渡辺隆之さんは寿司職人歴40年近いベテラン。ネタの評価では毎日のようにぼうずコンニャクとこのようなやりとりをしている。本文の内容はほとんど実話です。
文責/ぼうずコンニャク
魚貝研究家、そして寿司ネタ研究家。へぼ釣り師でもある。どんな魚も寿司ネタにして食べてみて「寿司飯と合わせたときの魚の旨さ」を研究している。目標は1000種類の寿司を食べること。HP『ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑』も要チェック。
以上の記事は「つり丸」2012年3月1日号の掲載情報です。
雑誌つり丸(マガジン・マガジン)を販売中!割引雑誌、プレゼント付雑誌、定期購読、バックナンバー、学割雑誌、シニア割雑誌などお得な雑誌情報満載!